6月16日ノルウェーのオスロで受賞から21年後になった受賞演説を行ったアウンサンスーチー。
ここでちょっと疑問が。いったいノーベル平和賞に値する実績があるのか?
まずその生い立ちですが、父はビルマ建国の父といわれるアウンサン将軍。 15歳のときに母がインド大使になりインドに移住。デリー大学で学ぶ。その後オックスフォード大学、アメリカなどで研究を進める。つまり政治活動を始めるまでは一貫して研究者として過ごしています。なかでも1985~86は京都大学で客員研究員として日本にも滞在して研究を進めていました。
彼女を否定するつもりは全くありませんし、支持していますが、ノーベル平和賞に値する実績があるかといえばはなはだ疑問です。
以下WIKIPEDIA からの引用です。
1988年4月、病気の母を看護するためビルマに戻る。1987年9月の高額紙幣廃止令などをきっかけに、学生を中心に始まった反政府運動(8888民主化運動)は、デモ中の学生が虐殺された同年3月以降に激化した。同年7月には1962年の軍事クーデターより独裁政治を敷いていたネ・ウィン将軍・ビルマ社会主義計画党議長が辞任した。 戒厳令下では学生、市民らが大規模なデモを行った。
アウンサンスーチーは1987年8月26日にシュエダゴン・パゴダ前集会で50万人に向け演説を行った。9月18日には国軍がクーデターを起こし、ソウ・マウン議長を首班とする軍事政権(国家法秩序回復評議会、SLORC。のちのSPDC―国家平和発展評議会)が誕生した。民主化運動は徹底的に弾圧され、数千人の犠牲者が出た。アウンサンスーチーは9月に、翌1990年に予定された選挙への参加を目指し、国民民主連盟(NLD)の結党に参加する。全国遊説を行うが、1989年7月に自宅軟禁された。
国外退去を条件に自由を認めるともちかけられたが拒否したと言われる。 軍事政権は1990年5月27日に総選挙を行い、アウンサンスーチーの率いる国民民主連盟が大勝した。しかし、軍政側は、「民主化より国の安全を優先する」と権力の移譲を拒否した。この強硬な姿勢は国際的に激しい非難を招き、アウンサンスーチーは1991年にノーベル平和賞を受賞した。賞金の130万ドルはビルマ国民の健康と教育のための基金の設立に使われた。ただし自宅軟禁中のため授賞式には出席できず、受賞演説を行ったのは軍政が民主化に本腰を入れ始めた21年後の2012年6月16日のことであった。
結局政治活動をできたのはわずか2年。軟禁されてからは当然何もできていません。
文中の太字部分が彼女の政治活動のほぼ全てです。
1999年に無くなった夫マイケル・アリス氏は英国諜報部勤務。英国の傀儡としてアウンサンスーチーがミャンマーに送られたのだという見方をする人もいます。まるで逆ハニートラップです。
平和賞といえば、金正日に会って金を送っただけで受賞した金大中や和平合意を果たすも結局なにもできなかったPLOのアラファト議長よりはずっとましですが 考えさせられます。
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